「道は開ける」「人を動かす」D・カーネギー
読者と同じ目線を徹底し、膨大な素材を集めブラッシュアップすることで、時代を超えることができたメソッド
デール・カーネギーの二冊「道は開ける」、「人を動かす」は自己啓発書のバイブルといって間違いない。本屋さんの自己啓発書のコーナーでこの本を小さく扱っているのを見たことがない。
「道は開ける」とか「人を動かす」とか日本語のタイトルだけを見ると、モーゼみたいな指導者か、安岡正篤や中村天風みたいな思想家の大先生が書いたものかと思ってしまうが、
原題を見てみると
「道は開ける」が「How to Stop Worrying and Start Living」(心配するのをやめて、生活を始める方法)
「人を動かす」が「How to Win Friends and Influence People」(友だちを得て、人々に影響を与える方法)
と、とっても実践的な<How To 本>なのだ。
大抵の<How To 本>の多くは、私はこうしたら成功したよ、といううまくいった人の経験談がメインになっているが、カーネギーの場合、とにかく取材と読書で実例をかき集めてセレクトしていて
そして、なんといっても”先生”のような上から目線じゃなく、悩みを抱えた人たちと同じ目線で書いている、ここがこの本の素晴らしさであり、説得力のあるところだ。
「道は開ける」の序文にこういうことが書かれている。
「35年前、私はニューヨークで最も不幸な若者の一人だった。トラックを売って生計を立ていた。私はどうやってモータートラックが走るのか知らななかった。それだけではなく、知りたくもなかった。私は自分の仕事を軽蔑していた。ゴキブリがはびこる西56丁目の安家具付きの部屋に住むのは大嫌いだった。今でも覚えているのは、壁にたくさんのネクタイがかかっていて、朝、新しいネクタイを取ろうと手を伸ばすと、ゴキブリは四方八方に散らばった。ゴキブリがはびこっているであろう安くて汚いレストランで食事をしなければならないことにうんざりしていた」
そこから彼は一念発起して仕事を辞め、教師になる勉強をしていたことを活かし、話し方講座を始め、Y.M.C.A.の夜間クラスの仕事についた。そこの生徒たちは大学の単位を取るためじゃなく、教養を身につけるためでもなく、実社会に役に立つメソッドを求めていた。
「最初は人前で話すことだけを教えていたが、年月が経つにつれて、大人たちは友人を獲得し、人々に影響を与える能力も必要としていることがわかった。人間関係についての適切な教科書が見つからなかったので、自分で書いた。いや、普通の方法では書けなかった。このクラスで学んだ大人たちの経験から育ち、発展したものだ。私はその本を『How to Win Friends and Influence People(人を動かす)』と名付けた」
彼の「人を動かす」は、成功者が語るノウハウではなく、成功体験を持たない一人の教師がクラスの生徒に役立つように、教材となるべき情報を集め、クラスでの経験をもとに日々ブラッシュアップしていった教科書なのだ。
初めはカードからリーフレット、そして小冊子へと分量を増し、彼は哲学書から心理学書、偉人の伝記まで大量に読破し、授業のための素材を収集して研究を続け、有名人や実業家にインタビューをし、図書館で文献調査をする人まで雇ってエピソードを蓄積していったという。
「人を動かす」話し方講座を始めて25年、対人関係の教材づくりを始めて15年経っていたそうで、カーネギーはすでに48歳になっていたという。
その12年後に「道は開ける」が出版されたが、これはカーネギー自身が、常に心配事で頭がいっぱいになってしまう人物だったらしく、彼自身がその対処法を求めていたわけだ。
メガネのオンデーズの社長の田中さんが、ビジネスで成功するためには、他の成功者の体験談やノウハウは、個性も時代やタイミングも違うから役に立たない、という発言をしていてなるほど、と思ったことがある。
しかし、カーネギーのメソッドは、成功を目的とするのではなく、対人関係の改善や、自身が悩んだ時の解決法であり、具体例もたくさん載せられているので、悩んだり迷ったりしている時に、手にとって適当に開いたページにおおっと思うようなことが書いてあったことが、僕は何度もあった。
僕は気持ちがへこむことが多いので「道は開ける」を手にする機会が多いのだが、自分の頭のなかとは一旦距離を置いて、「人を動かす」にあるような人間関係を良くする具体的なメソッドをとにかく実践するのもすごく効果的かもしれない。
人間関係が好転すれば、かなりの確率で悩みは減少するものだから。
いろいろ読んでみても、結局戻ってきてしまう二冊だ。
ちなみに、彼は不遇時代、それまでの仕事を辞めることを決意した時にこう思ったそうだ。
「私は書くために生き、生きるために書きたかったのだ」
(I wanted "to live to write and write to live".)